あの人らしい最期だった

先日ご近所で急なご不幸ごとがありました。
ご主人の年齢的にはあってもおかしくないとは思うのですが、実年齢よりも若く見えて元気そうだったし、亡くなる前日まで自転車で外出しておられたと耳にするとやはり急だという印象がぬぐえません。
ホント、人の人生ってわからないものです。

ご不幸があった後、奥様とお会いする機会がありました。
週に一度、お豆腐屋さんが販売しに来るのですが、その時にお会いしたのです。

その時にいれば私も極力買いに出るようにしているので(豆腐はダイエット生活の柱でもあります)お会いすることが多いのですが、その時は最後の方にひっそりと来られたような印象でした。実際にその時に残っていたのは私くらい。
なんとなく近所の人と会うのを避けているような。そんな感じを受けました。

こう書くとなんか嫌なイメージを抱いてしまうかもしれませんが、ご不幸ごとを経験された方にはご理解いただけると思います。
特に親しいご近所さんに会うのは若干避けてしまうものだと思うのです。
なんか妙に気を使わせてしまう気がして遠慮してしまうというか。

その時はお悔やみを申し上げた後、少し立ち話をしました。
たまたまご婦人と同世代のご近所さんの女性も立ち話に加わったのですが、立ち話のベクトルは私の方に向いていました。

それほど付き合いの距離が近くなく、世代も離れている人の方が話しやすいということがあったと思います。
多少の共有はするけれども、近い存在ほどは悲しみを共有しない。
カウンセリングにも当てはまることですが、こういう不幸ごとがあった時はお互いの距離感って大事だなと改めて思います。距離感が近すぎるとかえって話せなくなることもありますから。

そんな立ち話の中で印象に残ったフレーズがあります。
それは「あの人らしい最期だった」というもの。

人が天国に旅立った時に、周りの人はその人の人生を無意識に総括するのだと思うんです。
その人と過ごしてきた時間や伝え聞いたことから想像するものと、旅立ちとの比較。
それによってその人のイメージが固まるのだと思います。
そしてそのイメージは変わりようがない。そう思います。

そのイメージを形作るのには、旅立った人に対するもともと持っていた印象が影響を及ぼします。
それは顕在的なものだけでなく潜在的なものも含めてです。

だからいい印象を顕在的に持っていたとしても、悪い印象を顕在的に持っていたとしても、最終的には顕在的なイメージで決まる。
敵として憎んでいた相手であっても、その人の旅立ちの際に泣けてくる。
だからそんなことが起こるのです。

さて、自分が天国に旅立つ時に、周りはどんな総括をするのだろうか?
できればいいように総括してくれればいいなと思うけれど、死んでしまえばケセラセラ。死んじゃったらどんな総括なのか知る由もありません。

あんまり気にしても自分らしさを殺してしまうような気がするし、ある種の不自由さを感じることもあるでしょう。
だからそんなことは気にせずに、今を一生懸命生きていかなければと思います。

そうそう、そんなことを気にしている場合じゃない。
死後に周囲の人の中でどう生きるかを考えるよりも、今どう生きるのか?
それが大事だよなと改めて考えさせられました。ありがとうございました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください